昭和48年9月1日 月次祭
信心をしておれば、あぁ一年一年有り難うなってくると、教えて下さる、先日もそういう、み教えを、おぉ頂きました、あぁ日でしたが、ある方がお参りしてきて、「もう先生この頃はもう、いくら拝んだっちゃいくらお参りしたっちゃ有り難くなれない」と言うわけですね、皆さんどうでしょうか、あの一年一年有り難うなっておいでられておるでしょうか、信心が詳しくはなった、段々分かってはきたけれども、有り難うなっていないとすると、やはりこれはおかしいですから、一つ考えなければいけません、信心をしておれば一年一年有り難うなってくるというような、信心でなからなければ、値打ちがありません、ただ拝んでおりますもう何十年信心しておりますというだけでは、そりゃどうそげん有り難くなるげな、ああたんごと熱心にお参りさせて頂いてから、有り難くなれんということはどういうことであろうかと言うて、まあ話たことです。
その事を神様に私お願いさして頂きよりましたら、あぁ昔あの、お酒屋さんは、あの(四等だしせんのし?)とも申しました、えぇ、あれには、この飲み口というのが付いてます、これは先を引く所が、そこに小さいこのくらいばかりの栴がしてあります、あの栴を、おぉ専門語で梅栴と言うんです、梅栴と言うんです、樽のあの飲み口に、飲み口ですね、あの、ひねりがある、あれを付ける前には小さいこのくらいな、あぁ栴がしてある、それを梅栴と言う、えぇ字も、あぁ梅松桜の梅です、それに木偏にまったくと書いてある、ね、それで私は申しました、こりゃ梅栴ということは、あぁ、信心辛抱梅の花ということですかね、えぇん、信心辛抱のことを梅の花のお知らせを持って頂くから、ね、辛抱しきれずに飲み口と返って、出してしまいよる、ね、ここは一辛抱というところを一辛抱せずに、言うならばしたいことはする、飲みたい物は飲む、食べたい物は食べるといったようなことで、いかに金光様を拝んだところで、これは有り難き勿体無きは出てしまうのですから、これは有り難い勿体無きは段々薄うなっていく、有り難くなりたいと思うならば、ここぞというところを辛抱さしてもらう、もう段々信心のりっ、理解が出けてくると、その辛抱するということ事態がです、本当なことであり、辛抱することが有り難いと分かってくる、ね、出すものを、お神酒を中にいっぱいたたえておるのですから、いよいよ有り難くなるのですけれども、その梅栴を外してしまう、梅の花を取ってしまうから、いわゆる鶯も来てとまらん、同時に有り難くもなれんの、今こげなお知らせ頂きましたよっち言うたら、「はぁ~そりゃ分かりました」っち、と言うてその方が、まあぁ言われたことでございます、ね、だからいくらお参りしよってもいくら拝みよってもです、ね、やはり一年一年有り難うなっていくというような、私は信心とは、結局、ね、えぇ信心辛抱の徳だと思います、有り難くなるということ、まあ例えて申しますと、う~ん、まあ、あぁ、これは信心のない者、おぉが、まあ言うことでございますけれどもです、ね、言いたいことは明日言えと、一日経つと、もう言おうと思うておったことでも言わんですむようなことが沢山ある、それを信心させて頂く者はです、ね、信心でそれを言わないということです、ね、それを、言わば梅栴をと、飲み口とを取り替えて、出してしまいよるから、有り難くなれんのだと、ここには一口言うとかにゃん、と思うような事であってもです、もう実を言うたらもう黙って治めるということが一番有り難い、ね、だからその黙って治めるということがです、やはり辛抱なんです、辛抱がいるのです、こそ、金光様金光様で辛抱させて頂く、ね、それでも辛抱が出けん時には、お取次ぎを頂いておかげを頂かしてもらう、ね、お取次ぎを頂くとこれはまた別です、これはどんななんでもそうです、これは(?)は違いますけれども先日、ある、ん~、お願いさしてもらっておる時に頂いたことですけれども、お弁当箱のね、お弁当箱のご飯をお箸を使わずにそのまま弁当の中に口を持っていって、こう頂きよるところを頂いた、お取次ぎをいただっ、頂かんでも、やはり例えば商売なら商売も、毎日お願いせんでん、ちゃんと商売は、あぁあるだけはある、おかげも頂いておる、なるほどままにはなっておるけれども、それは本当におかげにはならない、ね、もう厳密に言うと、お道の信心さして頂く者の、おぉこれは、あぁそれの思い込みが、出けた者ほど、スッキリとしたお取次ぎの働きというものを、を、お取次ぎの作用を(?)、を受けることが出来る、お取次ぎを頂かずして起きてくる事、良い事悪い事みな悪いっち言う、お取次ぎを頂いて、ね、起きてくる事、良い事悪い事みな良いというのが、お取次ぎの働きなんです、お取次ぎを頂いて、例えば、損をしたと言うても、それは必ずおかげの元になるんだというのです、お取次ぎを頂かずして儲かった、それは必ず損の元になるんだというのです、いかにも目の前には儲かったようにあるけども、お取次ぎを頂かずして起きてくる事は、良い事悪い事みな悪い、お取次ぎを頂かんで、ね、ここのおところがあの私共の信心によってです、ね、日っ、ここのところの体験をしっかり積ませて頂いて、おかげを頂く、例えば今日はあの信心辛抱のことですけれどもね、うんなら辛抱が出来ない、といったようなことでもです、お取次ぎを頂いてお許しを頂いて、けば丁度そのお弁当にお箸という、お取次ぎを頂いて頂くのですから、同じままになるでも、ね、えぇ具合が良いわけです、ね、手つかみでお弁当を食べんならんといったような無作法なことをしなくてもいいのです、お取次ぎを頂くということは、そういう働きがある。
先日の、ん~、二十九日の敬親会の日、え~丁度、お~、おぉ、○少の、おぉ、若葉の集いがございました、信徒会講演の元に、丁度二百五十名の方達が集まる、二百五十名の方達が、もうそれこそ、おぉあの、お~、園芸を見せて頂いたり、皆で踊らして頂いたりして、ん~、おかげを頂いた、もうそれこそ今まで踊ったこともない人が歌うたこともない人が、歌を歌い踊りを踊ってです、もうそれこそおぉ一つの、お~、何て言うですかね、輪を作っての、その雰囲気というものは、何とも言えんものであった、もうそれこそ、踊ったこともない人達が踊る、親先生も踊りなさるげなからと言うので踊る、親先生も歌いなさるげなからと言うて一緒に歌いながら、あぁまあ楽しく一時を過ごさして頂いた、その後に非常におかげを皆さんが頂きましたですね、足の悪い人が足が良くなった、腰の痛かった人が腰が治ったっち言うように、まあ色々おかげを頂いた、ね、それはやはり何と申しますかね、う~ん、え~、お道の信心のまあ神髄とも言うものです、ね、いわゆる素直な心ということ、ね、「とてもおかしゅうしてこん歳なってから踊りてなんてん踊れますもんかい、いくら先生が言いなさったっちゃ」と、おぉ、言うては、信心にならない、例えば久保山さんあたりのように、それこそ踊ったこともないという人が、もう七十幾つにもなられる人がです、前の晩ここで稽古してから、あの踊りに参加されたと、そりゃおかげを頂いておられる、安東さんなんかも、あそこが痛かここが痛かと言いよったのが、初めて踊りを習うて、えぇ踊った、おかげを頂いておられます、ね、あれはやっぱあの踊り宗教っち言うのがありますね、私はまだ見たことないけども写真で見たが、もう目をつぶってこぉ~う、もう我が良かごと踊って良かって、こうやって、そうしておる内にもう無我の、境地が開けてくる、そしてやっぱ病気が治るっち言うんです、私はこの写真が出けてきたのを見ましたら、もう目つぶって、こう一番っ、一番前の正面に、秋山かずえさんが踊って、それから次に原さんが、踊っ、あの写真に、こう出てきてなさる、ところが二人ながら目をつぶって踊っとんなさる、はぁ目をつぶったはずはなかばってん、私が見る写真がそのこたあた目つぶっとる二人ながら目をつぶっちょる、はぁ大変おかげ頂いちゃろうと思うですたいね、もう無我のきょうのごとなってから、眠ってから踊ってるんですから、(笑)。
昨日竹内先生が東京出張からの帰りに寄られた、丁度写真が出けてきとりましたから、見せましたら、おぉその、おぉ、私が踊っとるところを見てから、「はぁ親先生のつはやっぱ、だいたいがその~、すねが良か」と、こういう風にやっとって、普通者なこうやっとるげな、して親先生となんかこういう風に、やってなさる(?笑い?)、そりゃなるほどそげん言やそげんです、私の後ろに正義さんがおりますもん、で同じこと、私が、こうやっとるとに、後ろんとげさんこうやって手を上げとる(笑)、そしてなんか悪いぎわしつぎたついたつごたる風な、感じで映ってるわけです、やっぱりこれはそのそのまま映るのですからね、私は何とはなしにしなやかにこうやってやっとり・・(笑)、だから本当スタイルが、あぁやっぱりあの~、良くなるためには、昔は踊りを踊るとスタイル、あの、格好が良くなると言ってましたが、やっぱりそうです、信心でもやっぱり同じことだと思うです、ね、信心を本当に、信心の地が出けて、まいりますと、ね、例えば今申しますように、信心辛抱それこそ歯食いしばって辛抱せんならんようなことがです、有り難く出来ることになってくるです、ここで言うたら馬鹿らしゅうなってくるです反対に、それは本当な事が分かるからなんです、けれどもお互いの場合は、分からんからここで一言言うとかんならんといったようなことになる、そして有り難くならなければならないはずのに、有り難くなれないということはどうしたことか、それは梅栴は抜いで、ひねりを返えよる、飲み口と返えて、そして有り難き勿体無きを出してしまいよるから、有り難くなれんのだということなんです、ね、ですから信心の合楽で言われるところの、言うならば基礎とでも申しましょうか、何故成り行きを大事にしなければならないか、何故全ての事を御事柄として受けなければならないかということが分かったら、辛抱はいらなくなってくるはずなんだ、ね、だから辛抱せんならん、その時が、今こそ修行中なのです。
今日も、ん~、北野の中村さんが毎朝参ってみえて、二十九日のおぉ敬親会の時に、私があん時に、えぇ、え~、合楽音頭、おぉ、だいたいは昔からああだったお歌ですけども、(お茶を飲まれる)、まあ○少のために、ん~、一・二番別に新たに出けて、え~それを(?)にしてから、皆さんに配ったのが余っとったから、お歳よりの方達も皆、あぁ、配りました、これはあれで大変おかげを頂いてから、「帰ってから私は目が悪いけんで初美に読んでもらいましたと、そしたらもうその文句の素晴らしいこと素晴らしいこつ、もうちょいととても合楽の親先生っちは、どうして頭良か人じゃろかっち言うちから内に言いよるます」とこう言う、今(?)、昔からあるとですよねあの歌は、もう改めてその、文句が一つ一つの御理解が今日も、それで今は、朝お参りをしてくるとに、えぇ、一番ばりで来るためには、もうほんながつがつがつのがあるけれども、歳よりでおよたれて、えぇ怪我どんしちゃならんと言うので、二十五分間、久留米の駅で待たんならん電車でやってきておる、「ところが今まではもう二十五分間も待たなんっちいうたところが、この頃はもう日に一つづつ歌ば覚えるごとしましたっち、すけんずーっとそれを見てから、今日はもうそれこそ梅の花じゃないけれども、信心辛抱梅の花やがて鶯来てとまるでその、ずーっと歌うちきたからもう、二十五分だんあっと言う間にしまえますと言うて、喜んでおられました、ね、もう本当に二十五分間待つ間でもです、言うならその歌の稽古、しかも御理解の稽古、なるほど、そのままが御理解である、ね、だから信心辛抱梅の花、やがてきっ、鶯来てとまるで、鶯の来てとまることを楽しみに、お参りが出けておるということなんです、そこで辛抱、ね、だから辛抱しなければならない時が修行なのです、それを辛抱しきれずに、梅栴を抜いでしまうから、何時まで経っても一年一年有り難うなってこなければならないはずのに、有り難くなれないということ、ね、私は本当に思うんですけども、信心しておかげを受けると言うけれどもね、有り難うなるということの、私はおかげでなからなければ、信心の値打ちはないと思う、ね、それにはです、信心辛抱なさらなきゃいけません、そして本当言うたら、その辛抱もせんですむくらいならなきゃいけん、ね、それこそ信心の、言わば合楽での信心の地が出けますとです、辛抱すること、むしろそういう時ほど、有り難うなってくる、ね。
今日、おぉ午前中の奉仕さしてもらっとる時に、ん、オアトの、おぉ、江頭さんがお参りになってみえて、足が悪い、この頃何時も自転車でお参りになるんですけれども、う~ん、この頃足が悪いから出けられなさらんようじゃった、ところが参ってみえとるから、「はぁ今日ああた自転車で参ってみえましたか」っち、ったら、(?)、久富勇さんの奥さんのお母さんにあたります、勇さんが「この頃月次祭たんべんに、いぃ迎い来てもらいます」っち、「もうこの頃は、あの、親孝行も出来んから、ね、せめてあの月次祭の日には、あの、自動車で迎えに来る」とこう、言われる、私はそれを聞きよったらもう御結界でもう泣き出すごと有り難うなった、もう本当にね、あの~もう他には出来んから、せめて親孝行に、お母さんを迎えに行くということ、他に何にも出来ん、色んな勇さんの場合は体もあんなにお悪いし、ね、経済の面にも、おぉ難渋しておられるし、色んな意味で修行中である、ですから何にも出来ん、ただかろうじて、自動車の運転だけが出来るのですから、自動車を持って、朝参りをして帰って、そしてまたオアトまで、えぇ迎えに行ってお母さんを、連れて参ってきなさる、勇さんがそげん言うてくれますけんって言いよるところへ、また勇さんの母、勇さんの自動車で参ってみえたということが分かりましたけれどもです、ね、もう何にもこの頃親孝行が出来んから、ね、せめての親孝行、どうでしょうか、せめてもの親孝行の信心が、出来るということ、これはね、例えばあの親の喜ぶ姿を見て、勇さんが喜びの湧かないはずがない、それを聞かせてもらう私は泣き出すごと有り難うなった、ね、私はこのせめてもの信心と言うけれども、せめてもの親孝行の信心になからにゃいかんと思うです、ね、そういう信心にならせて頂く時に、私は有り難いというものは与えられるものだと。
昨日一昨日、吉井の熊谷さんが、お届けをなさっておられます、ね、とにかく有り難くなろう有り難くなろうと思うて有り難くなられるものではない、有り難いというのは神様に許されるんだと、それを今日は信心辛抱ということ、ね、その辛抱しぬいた後に、はぁ辛抱して良かったという、喜びと、神様が良う辛抱してくれたねと言うて下さると、ようなものをこれに感ずる、そこから生まれてくる有り難いというもの、ね、せめてもの親孝行という信心、これは親の喜ぶ姿を見て、親、せめてもの親孝行さしてもらっておる者が、このくらいのものじゃ相済まんのだけれどもという、それに神様に感動ましまさらんはずがない、自分の有り難い人も有り難い、同時になら熊谷さんがおっしゃるように有り難いというものは、自分で有り難いということを頂こうとして頂けるものではない、神様から許されなければならない、どういう時に許されるかと、ね、先日からも、同じような意味のことでしたけれども、ここんところに一つの有り難くなられるコツ合いというものを感じたと言うて言うておられます、例えば親先生がお風呂へ入ってから、タオルを使われた後は、もう綺麗に濯いでからシャッとしたらこう、もうちょっとこう引っ張っとくと、もうそれこそまた使う時にのりを付けたつのようにキチッと四角に、えぇ渇いてるという、これはもう私は子供ん時からのこれは、私のこれはもう癖です、けれども悪い癖ではないと思う、ね、ですからね、熊谷さんそれをこの頃実行される、今まではもうポンッとかけたままじゃったのを、ね、それをあぁ親先生もこうなさるからと思うて、そのタオルのことをさせて頂いただけで喜びが湧いてくると言うわけ、不思議なことですね、ね、それは私がおかげを受けておる、その受けておるおかげがそのまま、熊谷さんに伝わっていくのじゃないかと私は思うです、ね、とてもあんたこの歳になってから何十年っちゃ踊るぞっとつもなかつに、と言わずに、親先生も踊んなさるげなから私も一つ覚えてから踊らせて頂こうというところからです、もうそれこそ踊りというものがこんなに、楽しいとか有り難い、いや楽しいとか愉快とかというじゃなくて、こんなにも有り難いもんだろうかと感じたと言うておられます、ね、ですから例えばね、有り難くならせて頂く一つのコツ合いというものはいかにも色々ございましょうけれどもです、ね、信心にはそういう、これは理屈ではないです、ね、実に微妙なことですけれども、親先生がこうなさるから、親先生がああ言われるからと、それを素直に受けれるところからです、ね、有り難くならして頂けれる、言わば神様が与えて下さる有り難いというものが、こちらに頂ける、その、その有り難いという心に、おかげがあるのです、そういうおかげでなからなければ、本当のおかげじゃない、有り難くもなれんのに、ただお願いしてお取次ぎを頂いて、どうぞどうぞとお願いして頂いておかげは、それは本当なおかげじゃない、そりゃ頂けますけれども、ね、信心しとれば一年一年有り難うなっていくと仰せられるのですから、まずは信心辛抱、こここそ信心辛抱さしてもらわなければという風に、辛抱の徳が付きますと、もう後は辛抱せんですむようになる、ね、それが信心辛抱の徳になる、普通の者ならいっちょ涙を流して、辛抱せんならんようなことが、有り難涙を流してその事が御事柄として受けられるようになる、ね、そういう稽古をです、私共はたえまずなされなければ有り難くはなれんのです、ね、一年一年有り難うなって行くと仰せられるのですから、ね、有り難くならせて頂くことを楽しみに信心さしてもらわなければいけない、ね、そのためには、その有り難くなるためには、というのを今日は信心辛抱ということを聞いて頂いた、ね、または、あぁ熊谷さんの例も取らして頂いた、または、あぁ久富勇さんのその例も取らせて頂いた、せめて親孝行の信心、せめて親が喜ぶから、ね、他ん事は出来んから、せめてこの事だけなっとんして、親に喜んでもらおうという、そこからです、自他共に喜べれる、感動が湧いてくる、いわゆるそういう喜びが与えられる、ね、自分で喜ぼうと思うても喜べませんけれども、そう、そういう信心の努力精進さしてもらうところから、有り難くなれれる、道が開けてくる、ね、信心のいわゆるおかげというのは、結局は有り難うならせて頂くということ、ですから、これは馬鹿でも、言うならば、私がごたるとでもいいということになる、そこで私は有り難い、どうでもこうでも一つ総理大臣になろうとも思わんし、ね、え~、えぇ何々博士になろうとも思わないし、またなれるはずもないもん、こう頭が悪くて、ね、けれどもね、日本一に有り難くならせて頂こうという願いなら誰でも持てれると思うです、ね、そりゃ日本一にはなれんでも、それこそ、ね、有り難いという道が開けてくる、誰でも有り難くなれれるのが、あぁ、私は信心だと、また誰でも有り難くなれれる、内容を持っておるのが有り難いということだと、それを有り難くなろうと努めない、この頃いくら(?)っちゃ有り難うなれません、ね、ただ拝んだ参っただけではいけん、やはりそこには信心し辛抱がいる、それをもうこつこつ忘れちからすぐ、その梅栴を抜いで出してしまうから、何時まで経っても有り難くなれんのである、ね。
いよいよ一つ、この9月は、あ~、総会がございます、秋季霊祭がございます、教祖生誕祭がございます、そして10月にはいよいよ、お~教祖90年祭にもお参りをさして頂かななりません、また同時に、こちらの御大祭でもございます、ね、それにはいよいよ少しでも、有り難い心を持って、全ての事が、ね、なされるおかげを頂くために、有り難うならせて頂く稽古を一つ本気でさして頂こう。
どうぞまずは一つ信心辛抱から、初めて頂きたいと思います。
どうぞ。
入力者:誠輝